22.脱亜論にはどのような歴史的意義があるのか。
(本文第71問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 清や朝鮮に対して武力で対処すべきことを唱え,国権論にくみする立場から清や朝鮮との軍事的対決の必然性と日本の強国化を方向づける契機となった。
▶ 基本事項の整理
- 福沢諭吉は日本がアジア文明の先導国になるには,軍備拡張は欠かせないと唱えた。1884~85年の清仏戦争を機に東アジア情勢が緊迫する中で,福沢諭吉は「文明」の名のもとに対清開戦を唱え,東方の盟主と仰がれるためには清との戦争に勝たなければならないと主張し,1885年の「時事新報」において脱亜入欧を説いた。
▶ 補足・発展
- 日本の東アジア観は朝鮮半島情勢の変化に対応して推移した。1873年までは征韓論が唱えられていたが,征韓論が敗北したあとは清や朝鮮と連帯して両国の近代化を図るべきとする日清・日朝提携論が登場した。1882年の壬午軍乱を機に,日清両国は朝鮮問題について対立すべきではないとする日清提携論や,清と朝鮮の宗属関係を断ち切って朝鮮の近代化を図ろうとする日朝提携論も唱えられるようになった。しかし1884年の甲申事変で親日派のクーデタが失敗したのを機に,日本も欧米にならって東アジアの分割に乗り出すべきとする脱亜論が登場して対清強硬論を支持する一方,ロシアの朝鮮半島進出への懸念が強まると対清協調も論じられるなど,清に対する政策方針は二面性をもつようになった。