19.江戸幕府はなぜ鎖国政策をとったのか。
(本文第48問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- キリスト教禁止の徹底化と貿易による西国大名の富裕化防止を図り,幕府が貿易を独占的・一元的に管理するため。しかし最近では,「鎖国」という語句そのものも使われなくなりつつある。その理由も考えてみよう。
▶ 基本事項の整理
- 徳川家康ははじめ貿易とキリスト教の布教活動は不可分の関係にあるとしてスペイン・ポルトガルの宣教師の活動を黙認していたが,信仰をもとにした信者の団結やスペイン・ポルトガルによる領土的野心の可能性などが懸念された。そこで幕府は1612年に直轄領に禁教令,翌年には全国に禁教令を出して教会破壊や宣教師追放を実施し,キリスト教信者を仏教徒に強制的に改宗させた。さらに貿易の利益を独占するために鎖国令発布や外国船の来航地限定・来航禁止措置などを通して貿易制限を実施し,1641年に平戸のオランダ商館を長崎出島に移転して鎖国を完成させた。
▶ 補足・発展
- 鎖国という用語は,19世紀初期に志筑忠雄がケンペルの『日本誌』を翻訳した際にはじめて用いられた語句で,鎖国政策が進められていた17世紀には鎖国という言葉そのものが存在しなかった。江戸時代には松前口(アイヌ)・長崎口(清・オランダ)・薩摩口(琉球)・対馬口(朝鮮)という4つの窓口を通じて異国や異民族との交流・交易が行われていたので,最近では国を閉鎖するための政策ではなく,明や清と同様,海禁政策の一種とみなされるようになった。日本と正式な国交があり,慶賀使・謝恩使が来日した琉球と通信使が来日した朝鮮を通信国,正式な国交はなかったが貿易は行われていた清・オランダを通商国と区別することもある。海禁体制によって幕藩体制が安定・強化し,約200年にわたる平和がもたらされた。また第2の国風文化ともいうべき独自の町人文化が開花したが,世界の進運から遅れ,島国根性が形成されるなど,日本人の意識形成にも大きな影響を与えた。