18.江戸幕府はなぜ厳しく農民を統制したのか。
(本文第47問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 本百姓体制を維持して年貢徴収の確実化を図るため。幕藩財政の根本が百姓からの年貢収納にあったことを考えればよい。
▶ 基本事項の整理
- 封建領主の経済基盤は本百姓からの貢租によって支えられていたために,幕藩は農民政策を重視した。1643年に出されたとされる田畑勝手作の禁令(=作付制限令)では,本田畑にたばこ・木綿・菜種などの商品作物の栽培を禁じ,農民が貨幣経済に巻き込まれるのを防ごうとした。また同年,田畑永代売買禁令を出して本田畑の売買を禁止し,農地の権利移動を抑えて農業経営の安定化を図ったが,両禁令ともしだいに有名無実と化した。また1673年と1713年には分地制限令を出して,田畑の細分化を禁止し,本百姓体制の維持につとめた。1673年の分地制限令では名主は20石,一般百姓は10石以上もっていないと分地は認められず,1713年の分地制限令では分地高と残高がともに10石,面積では1町以上であることが分地の条件となった。
▶ 補足・発展
- 幕藩権力は本百姓を「天下の根本なり」と位置づけ,「百姓は財の余らぬやうに不足になきやうに治むること道なり」(『本佐録(ほんさろく)』),「郷村の百姓共は死なぬ様に生きぬ様に」(『昇平夜話(しょうへいやわ)』),「胡麻の油と百姓は,絞れば絞るほど出るものなり」(『西域物語』)という農民観のもとに支配を強め,1642年には農村法令を発布して,祭礼・仏事,衣服,乗り物についての決まり事を示すなど,農民の生活全般を統制した。やがて明治政府は地租改正に先立って1871年に田畑勝手作,1872年に田畑永代売買をそれぞれ解禁して地価を確定した。