15.応仁の乱がもつ歴史的意義は何か。
(本文第35問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 室町幕府の将軍権威が失墜するとともに,幕府と拮抗してきた守護大名の多くが没落した。荘園公領制の崩壊が進み,下剋上の風潮が高まる中で,地方支配の実権は守護代や国人層に移り,戦国時代の到来を準備した。また文化人や僧侶の地方下向により,京都の中央文化の地方伝播を促す契機となった。
▶ 基本事項の整理
- 応仁の乱は将軍継嗣問題に管領家の家督相続問題が絡んで1467年におこり1477年まで続いた。乱直前には細川勝元を中心とする東軍には足利義政の弟足利義視が入って花の御所に陣を構え,山名持豊を中心とする西軍には義政夫人の日野富子の子の足利義尚が入って山名邸に陣を構えて対立した。しかし乱直後になると,東軍は将軍御所を占拠して足利義政・義視・義尚を迎え入れて正式な幕府軍としたが,1467年に大内政弘が西軍に加勢すると足利義視は東軍から西軍に寝返り,西側の将軍となって東西2つの幕府が成立した。管領の畠山家では畠山政長が東軍,畠山義就(よしひろ)が西軍にくみし,斯波家では斯波義敏(よしとし)が東軍,斯波義廉(よしかど)が西軍に入った。四職の赤松・京極は東軍,一色は西軍に与したが,乱中の1473年に山名持豊・細川勝元ともに病死し,乱は総大将を失った形で全国に波及した。やがて足利義視は美濃の土岐氏に迎えられて西側幕府は解体し,守護大名もそれぞれの領国に帰還して11年にわたる応仁の乱は終息した。西軍が本陣を置いた一帯には,のちに西陣織と呼ばれる高級絹織物業が盛んになり,京文化が伝播した地域には「小京都」と呼ばれる地方都市が発達した。
▶ 補足・発展
- 応仁の乱では足軽による略奪が激化し,戦場となった京都は焼け野原と化した。先例重視の時代が終わり,実力が権威をもつ時代に突入したことについて『塵塚(ちりづか)物語』には「凡そ例という文字をば向後は時という文字にかえて御心えあるべし」と記されている。なお戦国時代の開始については鎌倉公方と関東管領が対立して1454年に起こった享徳の乱や,将軍足利義材(よしき)(のち義稙(よしたね)と改名)を廃して足利義高(のち義澄と改名)を将軍に擁立した1493年の明応の政変に求めるなど,応仁の乱のほかにも諸説がある。また戦国時代の終期についても,1568年の織田信長の入京,1573年の室町幕府の滅亡,1590年の豊臣秀吉による全国統一に求めるなどさまざまな見方がある。