14.足利義満はなぜ勘合貿易を始めたのか。また足利義持はなぜ中断し,足利義教はなぜ貿易を再開したのか。
(本文第34問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 明から日本国王に冊封された足利義満は,経済的利益を考えて1404年から勘合貿易を始めたが,朝貢形式による交易だったため,それを屈辱的と批判して4代将軍足利義持は1411年に中断した。しかし室町幕府の財政基盤は脆弱だったので,貿易の利を捨てきれなかった6代将軍足利義教が1432年に貿易を再開した。
▶ 基本事項の整理
- 足利義満は,明からの再三にわたる倭寇禁圧要求と正式通交要求を受け入れ,1401年に祖阿(そあ)と肥富(こいつみ)を派遣して国交を開いた。日明間には倭寇の船と区別するために証票として勘合が用いられた。日本からの船は本字勘合,明からの船は日字勘合を携行し,底簿と照合した。勘合貿易において査証は寧波と北京で行われ,滞在費や運搬費などはすべて明が負担したので日本にとって貿易の利は大きかった。日本からは銅・刀剣・硫黄などが輸出され,明からは銅銭・生糸・絹織物などが輸入され,唐物(からもの)として珍重された。
▶ 補足・発展
- 勘合貿易は,日本からの朝貢に対して明の皇帝が返礼品と暦を授ける形で行われた。暦を与えるという行為は,宗主国が服属国の時間までをも掌握することを意味していた。貿易の実権ははじめ幕府が握っていたが,応仁の乱を機に幕府権威が衰退する中で,博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏の手に移り,両者は実権をめぐって争った末,1523年の寧波の乱後は大内氏が貿易を独占するところとなり,勘合貿易は16世紀半ば,大内氏が滅亡するまで継続した。