13.この落書はなぜ二条河原に掲げられたのか。
(本文第32問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 後醍醐天皇の里内裏が二条富小路(とみのこうじ)にあったから。地理的位置関係を考えればよい。
▶ 基本事項の整理
- 大覚寺統から即位した後醍醐天皇は1333年から天皇親政に着手して,いわゆる建武の新政をすすめ,摂政・関白をおかずに専制的支配をめざした。所領の安には天皇の綸旨が必要であるとする法令を出したため,諸国の武士たちは綸旨を偽作したり証拠文書を携えて京都に押しかけるなど社会は大きく混乱した。そのようすを風刺的に記したのが二条河原落書で,天皇の目に見え耳に聞こえるところに立てられたのである。
▶ 補足・発展
- 内裏は平安時代以来何度も火災に見舞われ,その都度再建されたものの鎌倉時代,承久の乱後の1227年に再び焼亡して以来再建されず,仮の御所として貴族の邸宅などを利用した里内裏が設けられ,天皇はそこを仮御所として生活を営むことになった。二条富小路内裏は1336年に足利尊氏の軍勢によって焼亡し,その後に仮御所となった土御門(つちみかど)東洞院殿(ひがしのとういんどの)が足利義満によって本格的に再建されて今日の京都御所の原型が誕生した。