10.源頼朝はなぜ幕府の位置を鎌倉に定めたのか。
(本文第24問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 鎌倉は三方が山に囲まれ,南が海に面した天然の要害の地であったこと,千葉常胤(つねたね)の進言があったこと,鶴岡八幡宮が源氏の守護神として精神的な支えとなっていたことなどによる。地形的事情・人物とのかかわり・信仰面の3点から考えればよい。
▶ 基本事項の整理
- 鶴岡八幡宮は前九年合戦の際に源頼義が石清水八幡宮を勧請(かんじょう)して由比郷(ゆいごう)に祀り,子の源義家は由比若宮を修築したという。また源頼朝の父である源義朝が平安時代末期に鎌倉を根拠地として勢威をふるっていたことなど,源氏にとっては先祖が活躍した地であると同時に守護神が祀られていた地であったことなどが考えられる。
▶ 補足・発展
- 千葉常胤は源頼朝に対し,安房の地は要害の地でもなければ源氏の先祖に関わる地でもないという理由から,ただちに鎌倉に行くように進言した。源頼朝ははじめ源義朝の旧跡に幕府を造ろうしたが義朝を祀る堂宇(どうう)がすでに建てられていたため,御所は大倉郷に営まれた(=大倉幕府)。1220年代中ごろに3代執権北条泰時は幕府を若宮大路沿いの宇津宮子(うつのみやずし)に移転し(=宇津宮子幕府),執権政治体制の威容を示した。鎌倉を象徴する鶴岡八幡宮は京都になぞらえて内裏に,そこに延びる若宮大路は朱雀大路にあたるという。