6.藤原氏はなぜ摂関政治を確立することができたのか。政治的・経済的・血脈的条件から考えよ。
(本文第16問対応)
▶ 解答例・視点・ヒント
- 他の有力貴族を排斥し,藤原氏一族で朝廷の高位高官を独占したほか荘園の寄進を受けることによって財源を固め,外戚政策を維持した。
▶ 基本事項の整理
- 承和の変(842年),応天門の変(866年),阿衡の紛議(887~88年),昌泰の変(901年),安和の変(969年)で有力貴族を排斥した。この経緯の中で,清和天皇の時,858年に藤原良房が実質上の摂政となり(正式就任は866年),光孝天皇の時,884年に藤原基経が実質上の関白となった(正式就任は887年)。藤原道長は娘彰子(しょうし)を一条天皇,子(けんし)を三条天皇,威子(いし)を後一条天皇,嬉子(きし)を後朱雀天皇のもとに入内させ,生まれてくる皇子(=次期天皇)の外祖父として権力を握る外戚政策をとり,道長と子の頼通の時代(10世紀末期~11世紀中期)に摂関政治は全盛期を迎えた。
▶ 補足・発展
- 摂関政治といっても政治が藤原氏によって私物化されたわけではなく,あくまでも太政官の政務を中心に展開された。国政に関わる重要な案件は公らによる陣定(じんのさだめ)と呼ばれる会議にもとづいて進められ,下位の者から順に意見を述べて天皇に上奏し,天皇の最終決断が太政官符や宣旨の形で伝達・命令され,政策に反映された。摂関家にも家政機関として政所があり,国政に直接関わることはなかったものの,そこから出る政所下文(まんどころくだしぶみ)と呼ばれる文書は私的ではあるが相応の権威をもっていた。